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第8回 ありがとう。そして、よろしく ――鹿嶋にて(Kashima)

7月29日、昨シーズン限りでエンジ色のユニフォームを脱いだ、
鹿島の本田(泰人)君の「引退試合」に出場するために、カシマスタジアムへ行ってきました。

14年間にわたり、Jリーグの発展に大きく貢献してきた本田君の引退。
最初にその話を耳にしたときは、「もっとやれるのでは」と残念に思いました。
ここ数年の間でチーム環境が変わり、なかなか調子の上がらない鹿島ですが、
そのような中でも彼のような精神的支柱となれる選手は、絶対に必要となってきます。
逆にそのような状況だから不可欠と言ってもいいのかもしれません。
ただ、本人が決めたことですし、『次のリーダーが育たない』という気持ちもあったのでしょう。
引退という決断をするのは本当に勇気が必要なことですが、新たなる一歩を踏み出せたということで、
良い花道を飾れたのではないでしょうか。

この試合では、93年にチャンピオンシップをともに戦った鹿島とV川崎(現・東京V)の選手たちが、14年の時を経て、再びピッチ上で顔を合わせました。
いざ試合が始まると両チームともに本気モードになったのですが、昔の鹿島のカラー(=サッカー)と全く変わっていませんでしたね。
うちも「ヴェルディらしいサッカーをしよう」と約束し、試合に臨んだのですが、互いに『負けられない』という気持ちがぶつかり合って、
昔の熱戦が再現されたように思えます。僕自身も試合をしていく中で、いろいろな思い出がよみがえってきました。
そもそも本田君とは本田技研(当時JSL1部)時代から数えると、20年近くの付き合いになります。
それ以前にも、僕が修徳高で、彼が帝京高と、同じ東京にある高校でプレーしていたため、顔を合わせることがよくありました。

僕が87年に、彼がその翌年に本田技研に入社したのですが、
当時から技術が高く、 『大人のサッカー』をやっている印象がありました。
それは20年近く経った今も全く変わっていませんでした。
本田君が入社したときは、僕が彼の面倒見役を任されていたのですが、
どんどん成長し、僕より先に試合に出場するようになったのです。
彼がプレーしてきたボランチは、状況を冷静に分析し、舵を取るポジション。
彼の性格とプレースタイルが合っていることもあり、多くを吸収して、チームに不可欠な選手になりました。

1993年にJリーグというプロリーグが開幕するということで、僕は91年に前身の読売クラブに移籍し、
本田君も翌年には鹿島行きを決意し、同じようにプロの道を歩んだのです。
移籍した鹿島でも、彼のリーダーシップは十分に発揮されていたように思えます。
当時、ジーコやアルシンドというスター選手がいましたが、彼らだけではチームは成り立たなかったと思います。
本田君の存在があったからこそ、日本人選手と彼ら外国人選手との融合が成し遂げられ、強豪と呼ばれるチームに成長していったのでしょう。

それを考えると、彼が鹿島というクラブに貢献してきたものは計り知れないと言えるのではないでしょうか。
彼を慕うチームメイト、サポーターの多くが引退試合に駆けつけたことが、その証でしょう。
僕もヴェルディでそうだったように、本田君を取り巻く鹿島という環境すべてが彼と一心同体だったからこそ、
同じクラブで14年間もの長きにわたりプレーしてこられたのだと思います。それは愛されていた証でもあります。

彼から多くを得たのは、鹿島の人だけではありません。僕もその内の一人です。
お互いに言葉には出しませんが、いつも近くにいて意識し合い、刺激を与え、受けつつ、切磋琢磨してきました。
彼がいたからこそ、僕も成長できたのです。仲間であり、良きライバルでした。
彼の存在があったからこそ、自分が引退するまで、高い意識を持って試合に臨んでこられたのだと思います。

今後、彼がどのような道に進むのかは分かりませんが、これまで自分自身を支えてくれた鹿島の関係者、サポーター、
そして日本のサッカーファンに、これまでの過程で得たものを還元していってもらいたいですね。
「選手としてやれること」、「それ以外でやれること」というのは全く違うものです。
本田君にしかできないことを生かして、日本サッカーの発展に貢献してほしいですね。
今まで「ありがとう」、そして「これからも日本のサッカーをよろしく」。

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